
「20世紀少年」の最終回を読み終えて、「ひどい」「ガッカリした」と感じた方は少なくないのではないでしょうか。
長年にわたって壮大に描かれてきた物語のラストに、拍子抜けした読者が続出しました。中でも、「ともだち」の正体が“カツマタくん”だったというネタバレには、驚きというよりも戸惑いや疑問が多く寄せられています。
伏線の数々がうやむやのまま終わったことや、物語の終盤に向けてグダグダとした展開が続いた点についても、批判の声は後を絶ちません。
「結局、ともだちは何がしたかったのか?」とモヤモヤしたままページを閉じた方も多いはずです。
本記事では、「20世紀少年 最終回 ひどい」と検索してたどり着いたあなたに向けて、最終回の問題点や評価が分かれる理由を丁寧に解説します。
カツマタくんの役割やともだちの正体についても触れながら、納得できなかったポイントや疑問の答えを、しっかり整理していきましょう。
- 最終回が「ひどい」と言われる理由と読者の不満点
- 「ともだち」の正体がカツマタくんであることの背景
- 伏線や展開のグダグダ感が生んだ批判のポイント
- 通常版・完全版・映画版の違いによる混乱の原因
「20世紀少年」最終回がひどいと言われる訳


- 「ともだち」の正体が肩透かしだった理由
- 「ともだち」は何がしたかったのか?
- 最終回の展開がグダグダだったという声
- 登場人物・カツマタの違和感ある扱い
- 伏線未回収のネタバレ要素を整理
「ともだち」の正体が肩透かしだった理由


「ともだち」の正体が明かされたとき、多くの読者が「えっ?」と拍子抜けしてしまいました。理由は、物語の中心にいたカリスマ的な存在が、予想外に地味で印象の薄いキャラクターだったからです。
物語を通して、「ともだち」は世界規模の陰謀を企てる知能犯として描かれてきました。読者の多くは、ケンヂやオッチョと深く関わりがある重要人物、あるいは読者がすでに知っている“意外なあの人”だと考えていたようです。だからこそ、最終的に「カツマタくん」だと判明したときに、「誰それ?」という反応になってしまったのです。
実際、カツマタくんは小学生時代のごく一部にしか登場していないキャラで、物語中盤まではほとんど話題にもなりませんでした。そのため、「後出しじゃんけんのようだ」と感じた読者も多かったようです。
さらに、物語の途中で「ともだち」は一度死に、別人が“2代目ともだち”として登場するという展開も混乱を招きました。特に通常版と完全版で設定が変わっている点が読者の理解を難しくしています。
完全版では一貫してカツマタくんがともだちという設定ですが、途中のセリフや描写と矛盾する場面が存在しており、「納得できない」と感じる読者が出てくるのも無理はありません。
このように、壮大な物語の核心にいるキャラクターの描き方が薄く、かつ複数バージョンが存在したことで、最終回のカタルシスが弱くなってしまったのが、「肩透かし」と言われる大きな理由です。
読者と同じように、「ともだち」の正体がカツマタくんと明かされたときに驚いた視聴者の声を、以下の動画で確認できます。
「ともだち」は何がしたかったのか?


「ともだち」の目的は、物語を通してもはっきりと語られることはありません。あえてぼかされていたからこそ、多くの読者にとって理解しづらく、モヤモヤした気持ちが残ったのではないでしょうか。
一見すると「世界征服」や「英雄ごっこ」のようにも見えますが、その裏には子供時代に受けた孤独や絶望があったことが示唆されています。特にカツマタくんは、いじめられていた過去や、誰にも覚えてもらえなかった存在として描かれます。このことから、「自分の存在を誰かに認めてほしい」「世界を巻き込んででも、注目されたい」という承認欲求が彼の原動力だったと考えられます。
また、「よげんの書」をなぞって世界を破滅に導くという行為は、子供時代にケンヂたちが書いた“遊びの世界”を、現実に引きずり出してしまうことでもあります。つまり、現実の世界を使って、子供時代の空想を再現したかったのかもしれません。
しかし、それが「何のために?」という問いに対する明確な答えにはなっていないという点が、多くの人にとって不満に感じられたのでしょう。悪役としての動機があいまいなまま物語が進んでしまったことが、「ともだち」というキャラクターをより一層つかみどころのない存在にしています。
結果として、彼の行動は「壮大な計画に見えるけど、結局は誰にも構ってもらえなかった子供の悲鳴だった」と受け取る人もいれば、「単なる悪ふざけ」と感じてしまう人もいます。読者によって印象が大きく分かれるのは、そうした曖昧さに理由があるのです。
最終回の展開がグダグダだったという声


「20世紀少年」の最終回について、「グダグダだった」と感じる読者は少なくありません。特に物語の締めくくりとして期待されていたラストの流れが、唐突でまとまりを欠いていたという声が目立ちます。
ストーリー全体は、子供時代の空想が現実化していくという壮大な構成で、多くの伏線や謎が張り巡らされていました。しかし、最終巻ではそれらの伏線の多くが回収されないまま終わってしまいます。長年続いた物語にも関わらず、「あれ?これで終わりなの?」と疑問を抱いた読者が多かったのも当然です。
また、最終決戦にあたる場面が、思ったほどの盛り上がりを見せなかった点も不満の一因です。物語の核心に迫るはずの場面でテンポが悪く、しかも結末が曖昧だったため、「打ち切り漫画みたいだ」と感じる人もいました。
さらに、原作の通常版と完全版でラストの描写が異なっている点も混乱を生んでいます。完全版では映画の展開に合わせて、最終的に「ともだち」がカツマタくんであると確定するよう加筆されました。しかし、途中の描写とつじつまが合わない箇所があり、「矛盾していて納得できない」という指摘が見られます。
こうした背景から、多くの読者は「構成が崩れた」「テーマがぼやけた」と感じ、最終回の評価が下がってしまったようです。壮大な序盤との落差が、最も大きな原因だったと言えるでしょう。
要素 | 内容 |
---|---|
伏線の未回収 | ドンキーの目撃内容、細菌テロの詳細、よげんの書の実現過程などが説明不足のまま終わった |
最終決戦の盛り上がり不足 | 物語のクライマックスにもかかわらず、緊張感や演出が弱く感情が高まりにくかった |
テンポの乱れ | 終盤にかけて説明的な場面が増え、話の進行が遅くなり読者の集中が途切れた |
バージョン間の矛盾 | 通常版と完全版、さらに映画版との違いによって展開が統一されておらず、混乱を招いた |
読後感の弱さ | 全体的にカタルシスが乏しく、「本当に終わったのか?」という疑問が残るラストだった |
登場人物・カツマタの違和感ある扱い


「ともだち」の正体とされたカツマタくんの扱いについて、多くの読者が違和感を覚えています。理由の一つは、彼の登場頻度があまりに少なく、物語の中心人物としては存在感が薄すぎた点です。
カツマタくんは、ケンヂたちと同じ小学校に通っていたクラスメートですが、回想シーンにほんの少し登場する程度で、読者の記憶にもほとんど残っていません。そのような人物が、世界を揺るがす陰謀の首謀者だったとされても、「急に出てきた感」が拭えず、納得しづらいのです。
さらに、原作では中盤まで「ともだち」の正体はフクベエだったように描かれていました。しかしフクベエの死後、何の前触れもなく「2代目」としてカツマタくんが登場し、物語を引き継ぎます。この切り替えが唐突で、しかも読者への説明が不十分だったため、「誰が何をしているのか分からない」と感じた人も多かったようです。
加えて、完全版では「最初からずっとカツマタくんがともだちだった」という形に修正されましたが、それにより途中のセリフや演出と矛盾が生まれてしまいました。たとえば、キリコやカンナが復活したともだちに「あなた誰?」と尋ねるシーンは、最初から知っていた人物なら成立しません。
このような不自然な扱いにより、カツマタくんというキャラクターの立ち位置が非常にあいまいになってしまい、物語の説得力を弱めてしまったのです。結果として、多くの読者が「納得できない展開」と感じてしまう原因となりました。
伏線未回収のネタバレ要素を整理


「20世紀少年」の最終回では、物語の中心にあったいくつかの伏線が回収されないまま終わったと指摘されています。長編作品であるだけに、多くの読者が「この伏線はどうなったのか」と疑問を持つのも無理はありません。
まず代表的な例として、「ドンキーが見たもの」の真相がはっきりしないまま終わります。ドンキーは物語の重要な鍵を握る人物ですが、彼の死の理由や見たはずの“ともだち”の姿など、曖昧にされたままです。回想や証言が断片的に語られるのみで、最終的に読者が想像するしかない構成になっていました。
また、「よげんの書」に描かれていた内容のすべてが現実化する過程も不明瞭です。本当にすべて計画通りに実行されたのか、それとも偶然だったのか。とくにロボットの登場や細菌テロの具体的な実行犯の詳細は語られず、設定だけが先行してしまった印象を受けます。
「ともだちランド」の施設や、その内部の運営実態についても詳しく描かれませんでした。大人が管理していたのか、完全に子供だけの世界だったのかという点ですら、明言されていません。終盤で重要な舞台となる場所にも関わらず、読者の想像に委ねられています。
こうした伏線の未回収により、「20世紀少年」は最後まで読み切ってもスッキリしない、という感想を抱く読者が多く見られました。結果的に「最終回がひどい」との評価にもつながっています。
伏線の内容 | 登場箇所 | 未回収のポイント |
---|---|---|
理科室の“5人目”の謎 | 1971年8月31日、理科室事件でケンヂたちが夜に潜入 | 登場人物はドンキーら4人のみで、もう1人存在したはずの人物が明かされず |
カンナ・フクベエ・万丈目の超能力 | スプーン曲げ・未来予知など、作中で度々描写 | それが何のための能力か、最終決戦でも説明されず |
顔がそっくりな複数人物 | 回想やバーチャル体験内で同一顔が複数登場 | 双子説や影武者など推測はあるが結局誰かは明示されず |
回想とVA(仮想体験)の年代ズレ | 秘密基地遊び1970年 vs VAでは1969年体験 | この1年のズレの理由は作中でも言及されず |
影武者「ともだち」の存在 | 山根・高須・ユキジらが“ともだち”目撃 | 誰が本物で誰が影武者かは不明、人数構成も明示なし |
原作コミックに登場する伏線を確認したい方は、公式ビッコミの作品ページもお役立てください:
「20世紀少年」最終回ひどいへの批判と再評価


- 「最終回 解説」から見える作品の狙い
- 「カツマタ」が黒幕に選ばれた背景とは
- 「ともだち」の正体に納得できない理由
- 賛否が分かれる「批判」のポイントまとめ
- 映画版との違いが生んだ混乱
- 結末をどう受け止めるべきか読者に問う
視点 | 内容 |
---|---|
批判:黒幕の意外性 | カツマタくんの正体が唐突で、登場頻度や人物背景が薄かったため納得しづらいと不満の声が多かった |
批判:伏線回収不足 | ドンキーの目撃や「ともだちランド」の詳細など、重要な謎が説明されず終わったことへの指摘があった |
再評価:テーマ性の深さ | 子供時代の過ちと向き合うという重厚なテーマに気づいた読者からは、意義深いと高く評価されている |
再評価:余韻を残す構成 | 明確に説明しないことで、読者の解釈に委ねる構造が「語れる作品」として支持されている |
再評価:ノスタルジー表現 | 昭和の情景や少年期の思い出を描いた演出が、特に中高年層に刺さり好意的な感想も多い |
物語全体の評価や読者の反応をレビューで確認したい方はこちらもご参照ください:
「最終回 解説」から見える作品の狙い


「20世紀少年」の最終回は、物語の完結というよりは、テーマの提示に重きが置かれているように見えます。物語の結末に明快な答えを求める人にとってはモヤモヤが残るかもしれませんが、制作者の意図を汲み取るとその意図が見えてきます。
最終回で特に印象的なのは、ケンヂが過去のカツマタと和解するような描写です。カツマタくんは少年時代のいじめによって深く傷つき、社会から孤立し、「ともだち」という仮面を被って世界を動かす存在になってしまいました。その彼に対して、ケンヂは「ともだちになってくれる?」と問いかけます。この場面には、過去の贖罪と許しというテーマが込められていると考えられます。
つまり、「最終回 解説」から読み取れるのは、単なる正義の勝利や謎の解明ではなく、過去の過ちや無関心に向き合うことの大切さです。子供時代の罪に目を背けず、大人になった今それを受け止めるという姿勢が描かれているのです。
また、作者の浦沢直樹氏は「読者それぞれが答えを考えてほしい」というスタンスを取っており、あえて完全な回収を避けたようにも見えます。明確な説明を避けることで、読者に問いかけを残し、作品の余韻を深める手法がとられているのです。
たしかに、そうした演出は一部の読者にとっては消化不良かもしれません。ただ、物語のメッセージ性を考えると、単純な勧善懲悪や説明的なエンディングでは表現しきれなかったテーマがそこにあったと考えることもできます。
「カツマタ」が黒幕に選ばれた背景とは


「ともだち」の正体がカツマタくんだったと知った読者の多くが驚いたのは、彼が物語序盤ではほとんど存在感のない人物だったからです。では、なぜカツマタくんが“黒幕”として選ばれたのでしょうか。その背景には、作品のテーマと構成の都合が関係していると考えられます。
まず、カツマタくんは「よげんの書」にも名前が出てこないような地味な存在でした。物語が進む中でも、他の登場人物のように感情移入できる描写がほとんどなかったため、読者にとっては印象が薄く、ミステリアスに映ったのです。その“影の薄さ”が、終盤でのサプライズにつながったとも言えます。
一方で、作者がカツマタくんを選んだのには意図も感じられます。彼は小学生時代にひどいイジメを受け、周囲の誰からも救われなかった存在です。つまり、正義のヒーローであるケンヂたちの裏側にある「無関心」や「加害性」を象徴するキャラクターでもあります。ケンヂたちのような“表の主人公”がいる一方で、カツマタくんは“裏の主人公”だったと考えると、彼の役割がより明確になります。
さらに、漫画版では途中まで「ともだち」がフクベエだった設定がありましたが、彼の死後、なぜかトモダチは復活します。この時点で「二代目ともだち」が必要になり、その役として過去に埋もれたカツマタくんが“再登場”したという見方もできます。設定の変更により、結果的に彼が物語全体を通じての“ラスボス”になったのです。
こうした背景を踏まえると、カツマタくんはただの「伏線回収用のサプライズ」ではなく、作品の裏側に隠れたもう一つの視点を担ったキャラクターだったとも言えるでしょう。
要素 | 詳細 |
---|---|
カツマタの初登場 | 小学生時代の回想シーンに数コマ登場(名前ありの登場はほとんどなし) |
選出の理由(作者側) | 作者・浦沢直樹が「主役以外の誰かが世界を動かしていたら面白い」という逆説的アイデアで選定 |
キャラクター設定 | いじめられた過去を持ち、周囲の誰にも記憶されていない存在として描かれる |
象徴的役割 | ケンヂたち“ヒーロー側”が見落としてきた「もう一人の被害者」としての象徴 |
物語構造上の都合 | フクベエ死亡後の“2代目ともだち”が必要となり、物語上の空白を埋める存在として配置 |
完全版コミックの構成も含めて背景を深く知りたい方はこちらが参考になります:
「ともだち」の正体に納得できない理由


物語の中でずっと謎として描かれてきた「ともだち」の正体。長い伏線や緻密なストーリー展開を経て、ようやく明かされたのがカツマタくんだったとき、多くの読者は「え?誰それ?」と拍子抜けしてしまいました。納得できないと感じた人が多かったのには、いくつかの明確な理由があります。
まず最大の理由は、「カツマタくん」の登場回数が圧倒的に少なかったことです。読者の多くは彼をほとんど覚えていない、あるいは名前すら知らなかったという声も多くありました。物語の終盤で「実は黒幕でした」と言われても、感情がついていかないのは当然です。いわば“記憶にない人物がラスボス”という不自然さが、不満の最大の要因でした。
さらに、カツマタくんの正体を明かす前後の描写が非常に淡白だったことも影響しています。例えば、「実は昔、いじめられていて…」という説明だけで彼の動機が語られますが、それでは多くの行動の裏付けが弱くなります。なぜここまでの規模で事件を起こすに至ったのか、なぜあれほどの支持を集められたのかといった説明がないまま終わってしまいました。
また、「ともだち」が物語の中で何度も変装したり、別人のような言動を取っていたため、読者の間で「複数人いるのでは?」という推測が生まれ、それが実際に部分的には当たっていたものの、最後の答えがカツマタくん一人だったことに失望感を抱く人も少なくありません。
映画版と完全版では最初から最後まで一貫してカツマタくんが「ともだち」だとされていますが、通常版コミックではフクベエとカツマタの“二人説”が有力でした。こうしたバージョン違いも、読者の混乱や納得のいかなさに拍車をかけています。
このように、「ともだち」の正体がカツマタくんだったことは、物語上の仕掛けというより、読者の期待値を大きく下回った“構成上の選択”だったと言えるかもしれません。
要素 | 内容 |
---|---|
正体がカツマタ友幸 | 本編中での登場が非常に少なく、印象に残りづらいため「誰?」と感じる読者が多かった |
動機の薄さ | 「いじめられていた」という背景だけでは、世界的陰謀の動機としては弱いと捉えられた |
伏線との整合性 | 途中まで「フクベエ=ともだち」と思わせる描写が多く、後半とのつながりが不自然と指摘された |
複数のバージョン | 通常版・完全版・映画版で設定や描写に違いがあり、読者が混乱した |
演出の説明不足 | 「2代目ともだち」の登場や入れ替わりの演出が唐突で、十分な説明がされていなかった |
原作と映画など異なるバージョン間の違いを比較検証したい方は、Wikipediaの漫画版公式ページも参考になります:
賛否が分かれる「批判」のポイントまとめ


「20世紀少年」の最終回については、読み終えた読者の間で評価が大きく分かれています。その最大の理由は、作品全体に対する期待の大きさと、最終的な着地のズレにあります。
まずよく聞かれる批判は、「長く引っ張ったわりにオチが弱い」という点です。「ともだち」の正体が最後まで明かされず、期待がどんどん高まっていったことで、終盤の種明かしに対するハードルが上がりすぎた感は否めません。特に、その正体が“地味なキャラ”であるカツマタくんだったことに落胆した声は多く、拍子抜けしたという読者が続出しました。
次に、伏線の回収不足も不満の原因となっています。物語の中には複数の謎や布石が張り巡らされていますが、それらの多くが明確に説明されずに終わってしまいます。登場人物の一部は「結局、何のために出てきたのか分からない」とさえ言われています。
一方で、評価する声もあります。それは「壮大なスケール感とノスタルジーが魅力的だった」というものです。特に、昭和の雰囲気を感じられるシーンや、少年時代の夢と現実が交差する構成には根強いファンが多いです。
ただし、そういったファンでさえ「もう少し丁寧にまとめてくれたら」と惜しむ声が見られるため、まさに“賛否が分かれる作品”となっています。完璧ではないからこそ、語り継がれる余地があるのかもしれません。
評価の観点 | 批判的な声 | 肯定的な声 |
---|---|---|
「ともだち」の正体 | 伏線が弱く、記憶にないキャラで拍子抜けした | 地味な人物を黒幕にしたことで意外性があった |
伏線の回収 | 多くの謎が説明不足のまま終わった | 全てを説明しないことで余韻を残した |
物語の終わり方 | 唐突でスッキリしない、投げっぱなしに感じた | 和解と贖罪という深いテーマが描かれていた |
構成と展開 | 中盤以降テンポが崩れ、ラストが冗長になった | 少年時代の空想と現実の交差が感動的だった |
キャラ描写 | 主要人物が雑に扱われているように感じた | ケンヂの成長や仲間との絆が丁寧に描かれた |
映画版との違いが生んだ混乱


映画版「20世紀少年」は、漫画原作とは異なる結末や演出を取り入れているため、初めて映画から入った人や、原作との違いを比較した人の間で混乱が起きやすくなっています。
まず、原作では「ともだち」はフクベエからカツマタくんに引き継がれるという流れがありますが、映画では最初から最後までカツマタくんが「ともだち」という設定に変更されています。これにより、原作を読んでいたファンにとっては「え?いつの間に設定が変わったの?」と戸惑う要因となりました。
また、映画版では一部のキャラクターの背景や行動が簡略化されています。これは尺の都合によるものですが、その結果として「動機が薄い」「感情の流れが不自然」と感じられる場面も少なくありません。特に、映画の最終章での展開がやや駆け足で処理されているため、「中身が薄い」との評価が出ることもあります。
そしてもう一つの混乱の原因は、「完全版コミック」による内容の改変です。映画公開後に出た完全版では、映画の流れに合わせて結末が修正されています。そのため、通常版と完全版、さらに映画の3つのストーリーが微妙に食い違っているのです。
このような複数バージョンの存在により、どの展開が“本当”なのか分からなくなり、読者・視聴者にとって混乱を招く要因となっています。裏を返せば、それぞれの解釈を楽しむこともできるのですが、明確な結末を求めていた層には納得しにくい作りだったと言えるでしょう。
項目 | 映画版 | 原作(通常版/完全版) |
---|---|---|
「ともだち」の正体 | 一貫してカツマタが黒幕として描かれる | 通常版はフクベエ→カツマタへの引き継ぎ、完全版は最初からカツマタ |
ストーリー構成 | 3部作に圧縮され、多くの設定・人物関係が簡略化 | 長期連載のため伏線や人物の掘り下げが多い |
ラストの描写 | ケンヂとカツマタが和解する描写が中心 | 原作は解釈が分かれる終わり方。特に通常版は曖昧さが強い |
主要キャラの扱い | 尺の都合で登場しない・役割が縮小されたキャラが多い(例:サダカネ、ユキジ) | 主要人物の内面や背景が丁寧に描写されている |
混乱の要因 | 原作との違いを知らないと真の意味が伝わりにくい構成 | 通常版・完全版・映画の3つが混在していることで混乱を招く |
実写映画3部作の制作背景や演出変更については、公式映画情報の解説をご覧ください:
本格科学冒険映画 20世紀少年|Wikipedia(映画版)
結末をどう受け止めるべきか読者に問う


「20世紀少年」の結末に対して、どう向き合うべきか悩む読者は少なくありません。最終回が「ひどい」と言われる一方で、「あれはあれで意味がある」という意見も確かに存在します。ここでは、その両面を踏まえたうえで、読者がどう受け止めるべきかを考えてみます。
まず前提として、作者・浦沢直樹氏が描こうとしたテーマは、単なる謎解きではなく、「少年時代の記憶」と「大人としての責任」が交差する複雑な人間ドラマでした。つまり、誰が黒幕かを当てることよりも、登場人物たちが何を後悔し、どうやって償っていくかが核となっているのです。
そのため、最終回ではあえて多くを語らず、感情の余韻を残す形が選ばれた可能性があります。読者に「この結末をどう感じるか」を委ねたという点で、明確な結論を提示しない方法は、ある種の挑戦とも言えるでしょう。すべてを説明しないことで、受け手によって印象が変わる余地が生まれています。
しかし一方で、多くの伏線や疑問が未解決のままであることは否めません。「ともだち」の動機や一部キャラの処遇について説明が不十分な部分があり、それが“投げっぱなし”と捉えられてしまう原因になっています。特に、初めて読む人や一気読みした読者にとっては、唐突に終わった印象を持つことがあるかもしれません。
このように、読後のモヤモヤ感や解釈の幅広さは、作者があえて読者に「物語の続きを心の中で描いてほしい」と託した結果と考えることもできます。物語を追いながら、自分自身の過去や人間関係を重ねていた読者ほど、その余韻を深く感じることでしょう。
どのように結末を受け止めるかは、読者一人ひとりの人生経験や視点に大きく左右されます。スッキリしない終わり方を否定するのではなく、自分なりの解釈を持って再び作品と向き合ってみると、違った発見があるかもしれません。むしろ、その“語り合いたくなる余白”こそが、「20世紀少年」が今もなお議論され続けている理由のひとつだと考えられます。
まとめ:20世紀少年 最終回ひどい?
記事をまとめます。
- 「ともだち」の正体が地味すぎて拍子抜けされている
- カツマタくんの登場頻度が極端に少なく印象が薄い
- 壮大なストーリーに対して結末が物足りないと感じられている
- 「ともだち」の目的が曖昧で動機に説得力がない
- 物語の伏線が未回収のまま終わっている箇所が多い
- 最終決戦が盛り上がりに欠け、テンポが悪い
- 完全版と通常版で設定に矛盾が生じている
- 「誰それ?」と感じるほどの意外性のない黒幕選定
- カツマタが“黒幕”になった理由が作中で説明不足
- 読者への問いかけを残すような結末構成になっている
- 「よげんの書」が現実化していく過程が曖昧
- 「ともだちランド」の詳細や実態が描かれていない
- ドンキーの見たものの真相が明かされずじまい
- 読者によって「ともだち」の印象が大きく異なる
- カツマタがフクベエの死後に突然出てきたように見える
- 最終回の描写が駆け足で雑に感じられている
- 映画版・完全版・通常版の設定が食い違っている
- カツマタに感情移入できるだけの描写が足りない
- 結末が説明不足で「打ち切り感」を覚える人も多い
- ノスタルジーと少年時代の記憶がテーマの軸になっている
- 浦沢直樹の意図として“余白”を残す演出が選ばれている
- 登場人物の扱いや動機に説明が足りないと感じられている
- 解釈の幅が広く、読後にモヤモヤが残る構成になっている
- 映画の尺の都合でキャラ背景が簡略化され混乱が生じた
- 一部の読者には「ともだち」の動機が幼稚に映る
- 最後まで読み切っても満足感が得られにくい構成になっている